血液型別山本七平。


 血液型別性格判断などというシロモノは「当該するものは印象に残るがそうでないものは脳がカウントしない」という人間の認知傾向を利用した単なるトリックに他ならないと考えているのだが。

 世にあまたある「日本人論」なるものの多くも血液型別性格診断と同じで「あー、あるあるある」なとこを巧く突かれると「なるほど!」とつい腑に落ちてしまうけれど、冷静になって考えてみれば「それって他の国の人もあんま変わんないんじゃない?」とか「よく考えたらオレが知ってる”外国人”って全部メディア経由だよなあ..」なとこに落ち着いたりする。もちろん、気候風土や社会構造の違い等によって思考や行動の傾向にある程度の偏差はあるだろうけど、たとえば移民の数世代を観察すればそんなものが何百年や何千年のオーダーで人々を縛るものでないことはすぐにわかるはずだ。

 なんでこんなことを書いてるかと言うと。
本来居酒屋談義にしかならないはずの血液型別性格判断や日本人論が私たちの社会や暮らしの在り方に憂鬱な影響をもたらしていると感じるからだ。もっとも血液型別性格判断に関してはそのバカバカしさが多少なりともアナウンスされてきているとは思うが、思いつきの「日本人論」の方はより深刻な勢いを増して来ているような気がする。

「日本人は農耕民族だから牧畜民族と違ってそんな残酷なことが出来ない。」
「日本人は多神教だから一神教の民族と違って寛容なのだ。」
「日本人は単一民族だから”和’を尊重する。」

 こんな浅薄な「日本人論」はあちこちで見ることが出来るはずだ。のみならず政治や行政が「日本人論」によって言い訳されたりすることも少なくない。果たしてその「日本人論」が普遍的な事実に裏打ちされているかどうかは問われることもなく。

 事実かどうかも判らないエッジの立ったエピソードをもって全体を規定する「日本人論」の嚆矢としてはかの山本七平氏が著名だが、浅見定雄氏などによって化けの皮が剥がされてしまったにもかかわらず未だにあちこちでもてはやされているのは実はわからないでもない。ストンと認知の隙間に入り込むエピソード主義に快感を感じる回路は私にもある。だが今私たちがあらためて対峙しなければならないのは「山本七平式エピソード主義」だ。

 ”生活保護を受けながら外車を乗り回している”というエピソードで生活保護者全体の権利を制限しようとはしていないか。”公営バスの運転手の年収は1000万円あるらしい”というエピソードで公務員全体の権利を制限しようとしていないか。”凶悪犯罪の報道が相次いでいる”というエピソードで私たちみんなの権利を制限しようとしていないか。

 エピソード主義の果てにあるものにもっと注意深くあった方がいい。