「善なるクオリア」は誰が決めるのか?


ここんとこメディアの寵児のごとき扱いをされている茂木健一郎という脳科学者に対してなんだか漠然とした警戒心を抱いていた。


ゲーム脳」の森昭雄のようなインチキ学者とは違うようだし、彼の研究テーマである「クオリア」という概念について自分なりに調べてみてもこれといって否定しなければならないところはなかった。それなのにどことなく釈然としない。そんな時に精神科臨床医である斎藤環さんの論考に出会って「おお、私のモヤモヤの原因はこれだったのか!」と思わず膝を叩いてしまったのだった。


 従来の物理学や化学では解明できない、たとえば「感動」という脳の営為はどこからやってくるのかを解明することは人間を次のステップに導くことなのだ、という茂木氏の提唱は有益なものに思えるし、また「言葉の芸術である文学でさえ、作品の価値は言語化も記号化もできないクオリア体験の質で決まるのである。」という彼の言葉は平易に私の心にも入ってくる。「クオリア」は脳の営為として誰しもが肯定すべきものに他ならないように思えはしないか。


 それに対して斉藤氏は「クオリア」を価値判断の根拠に据えたそうな身振りが茂木氏にかいま見えることを批判する。それがまさに私がモヤモヤしていたことの答えだった。茂木氏の言動は「クオリア」を善なるものと捉えてるかのようだ。あるいは彼自身はそう考えていなくとも、「クオリア」概念の流布のために彼の言葉を受け止めた人々がそう解釈することを意図してるかのようにも見える。(彼の”クオリア原理主義宣言”でのアジテーションはまさしく”クオリア=善きもの”宣言に他ならない。)


 感動したり共感したりすることはそれだけで「善」であるように思えるし、また感動や共感を疑う者はともすれば非人間的と非難される。だが、かつてナチスの党大会に熱狂し涙を流した群衆の感動も「クオリア」であり、光市事件の犯人を吊せと叫ぶ人々が遺族の文章に涙したのも「クオリア」ゆえなのだ。


 斉藤氏は”懐疑する能力こそが、倫理の前提である”と書く。また”倫理とは、まずなによりも、「美」や「実感」に最大の価値を見いださないための、思考の拘束具”とも。このいかにも非人間的に聞こえる言葉こそ私には人間が前に進むためのものであるように思える。


 リンクした映像は太地でイルカ漁に携わる漁師とそれに涙で抗議する美少女を捉えたもの。ともすれば漁師にではなく美少女に味方したくなる。イルカ漁の是非も忘れて。これは「クオリア」によるものなのか?もしそうなら「善なるクオリア」なのだろうか?