属せない人々。


ブロガー同士のトラブルの一端に首を突っ込んでしまったゆえにここんとこずっといろんなひとのいろんな論議や表明や罵倒を見て来たわけだが。

 トラブルの中心におられて不愉快な思いをされた、あるいは今もされてる方々には叱られるかもしれないけど、私にとってはいろいろなことを考えるのに良い(?)きっかけになった。色々考えた末に得られたもののひとつは、わたしにとって「サヨク」と「ウヨク」っていう対立軸があまり意味を持たなくなったことだ。今回のトラブルで私が感じた対立軸を強いて言葉に代えるとしたら、「属せる人」と「属せない人」との断絶と言えるかも知れない。言い換えれば”自明の(ように見える)もの”に素朴なもたれかかりを持てるかどうかの違いだとも思う。

 ”自明の(ように見える)もの”とは時によって「思いやり」だったり「愛」だったり「素朴な感情」だったり「家族」だったり「国家」だったり「仲間」だったりするが、「属せない人」は属せないゆえにその自明性から生じるさまざまな抑圧を予感し恐怖する。「属せる人」の「思いやり」や「愛」は容易にたとえば「日の丸」や「君が代」にとってかわるように思えるからだ。

 属せない人は疑う人でもある。自明じゃないものは疑ってそして考えるしかない。自分の「愛」や「思いやり」を疑うことは不幸なことか幸福なことか。私にはまだまだ答えが出せそうにない。