人はみなお遍路さんかも知れないね。

 遍路道を行った。といっても笈づるを着て歩いたわけではなく、散策した道程が遍路道と重なっただけなのではあるけれど。

 遍路道を進むにつれ笈づるを着たお遍路さんの歩く姿を頻繁に見かけるようになり、そして歩く人々の姿はいくらかの距離をあけながらも途切れなく続く。住宅も商店もどことなく慎ましやかに見える遍路道沿いの風景にとけ込んだお遍路さんの旅姿を見ていると、この日本という島のあれこれがどこまでも愛しくなる。

 私はこの国の為政者が人々の持つべきものとして言い立てるような”愛国心”なぞカケラも持ち合わせてはいない。「日本に生まれて良かった。」とか「やっぱり日本が一番。」等と言う無邪気さにいらだたせられるひねくれ者でもある。また「日本人」という呼称に常に違和感を持ってきた。「私たち日本人は」という言葉を聞かされるたびに「お前の言う”日本人”ってなんなんだ?」という問いを心の中で投げ返してしまう。

 にも関わらずやっぱり私はこの島の風景を愛しているし、この島に住む人々のことが好きだ。わたしにとってこの「日本」という島はどんなにチンケでショボくても他の島や大陸とは違う私だけの存在なのだ。そしてその気持ちは断じて「愛国心」などという陳腐な言葉で置き換えられるものではない。

 他の国や土地に比べて優れていなければ、あるいは美しくなければ、あるいは強くなければ。そんな「愛国心」のいかに浅薄で惨めなことか。私たちはこの島に偶然生まれあるいはたどりつき笑い泣きそして猥雑にしたたかに生き暮らしてきただけのこと。誇らしげに旗を立てることもなく決められた歌を唄うこともなく。

 金剛杖をついてゆっくりと穏やかに慎ましやかな道を歩む老人の後ろ姿を見てそんなことを考えていた。