学校が工場になる日。

滅多にテレビを見ない私だけど、先日深夜に何気なくテレビのスイッチを入れたところ「夜回り先生」なる人物の活動を取り上げたドキュメント番組が放映されていた。
その番組の中で耳に残ったのが「いま子供達の悲鳴がリストカットという形で噴き出している。」という彼の言葉だ。
つまり「学校」や「家族」という社会からの抑圧に対して「暴力」や「非行」という形で外に向かうのではなく自傷行為として内に向ける子供達が増えて来ている、という。

私には外界を責めるのではなく自分を責める子供達の気持ちが手に取るようにわかる。
なぜなら程度の差はあれ私もリストカッターだったからだ。

小学校中学校時代の私は自分で言うのもなんだが超優等生だった。元々自分の能力に極端に自信の無い私は随分無理をしてそう振る舞っていたわけだけど、滑り止めのはずの私立高校の入試に落ち背水の陣で挑んだ公立高校に合格した途端に緊張の糸が切れ、順調に落ちこぼれへの坂道を転げ落ちていった。もちろんそんな落ちこぼれを受け入れてくれる大学などあるはずもなくこれまた順当に浪人生となったわけだが。

予備校に通うようになっても授業をサボって喫茶店やデパートの屋上で浪人仲間と馬鹿話に耽る毎日。もちろんそんなところで暇をつぶす金は両親から貰う小遣いからである。そんなどうしようもない私を見ている母は優等生だった頃の私がデフォルトであるゆえにどこまでも寛容で、また父は逆に私を徹底的に否定した。
金銭的に全面的に依存しているにもかかわらず、母の寛容さに苛立ち父の罵りに反発している自分が、そしてそれを外に出せない自分がとても情けなかった。またちっぽけなプライドが邪魔をして高卒で働くという選択肢も取れない自分の醜さが情けなかった。

自分が誰からもなんの価値も認められていないような気持ちを抱えて深夜ただひとり眠れずにいる時、カッターナイフで手首にうっすら傷を付け、自分の体から流れ出る血液を眺めていると「俺はまだ生きてる。」と感じることが出来たのだ。

結局一浪後奇跡的に、全く奇跡的に大学に合格し、そこで出逢った色々な物事や人々に翻弄されることになりそんな空虚な気分を反芻する暇も無くなったのだが。

「いじめもリストカットも非行も子供達の悲鳴なんだ。」という「夜回り先生」の言葉が私には実感を持ってわかる。大人が造った社会によって抑えつけられた子供の悲鳴が「いじめ」や「非行」として外に向かい、「リストカット」や「引きこもり」として内に向かう。

教育基本法を改訂したい大人達が言う。
「学校間に競争原理を。」
「子供に権利ばかりではなく義務を。」
「子供に”国を愛する”心を。」

あんた方は子供を「愛して」いるのか?