大阪弁でLet it be。

ネットの海を漂流していて面白いと思ったものは片っ端からブックマーク(”お気に入り”という無神経な表示はいかにもMSらしいね。参考のためにしかたなくブックマークしたサイトでもそれを”お気に入り”の中に入れんきゃならん、というのは実に不愉快。気に入ってないっちゅうねん!)してるのでいつのまにかブックマークリストが膨大なものになってる。それではブックマークの意味も薄れるので時たまひとつひとつチェックして不要になったものを消したりグループごとにまとめたりするのだが、大掃除などで本棚を整理しているうちについその中の一冊に読みふけって掃除をサボってしまうのにも似て、忘れていたサイトをあらためて読みふけってしまったりする。

で、「プログレッシブな日々」というブログの”ポール・マッカートニー関西人説”というエントリーを再発見。ビートルズの”Let it be ”を関西弁で訳してみたらこうなった、というもの。

(原詞)

When I find myself in times of trouble

Mother Mary comes to me       
    
Speaking words of wisdom Let it be

And in my hour of darkness

She is standing right in front of me

Speaking words of wisdom Let it be

Let it be Let it be

Let it be Let it be

Whisper words of wisdom Let it be

(”プログレッシブな日々”氏訳)

わてにどないせぇっちゅうねん! ってなったら、

聖母マリアはんが来てくれてな、

ええこと、ゆうてくれまんねん。「それで、ええやないか」

ドツボで、目の前まっ暗闇のわての、まん前に立たはってな、

ええこと、ゆうてくれまんねん。「それで、ええやないか」。

「ええやないか、かめへん、かめへん」

「ええやないか、かめへん、かめへん」

ほんま、ええこと囁いてくれまんねん。

「それで、ええやないか」

面白いけど、大阪原人としてはどことなく違和感がある。
わたしは安倍ちゃんや慎太郎閣下が求めるような”愛国心”などツメのアカほども持っていないけど、郷里の言葉を愛することにかけては自分でもいささか偏狭であると思うぐらい。”プログレッシブな日々”氏が大阪に出自を持つ方かどうかは判らないけど、少々ステレオタイプ大阪弁表現のように見える彼(もしくは彼女)の訳には異議を唱えたい。

まず、「わて」という人称を使う大阪人はかなり限定されるはず。現在ではほとんど使うひともいないが、多少時代を遡っても使われるのは大阪中心部のそれもかなり限定された範囲の特定の階層の人々に限られるはずだ。「わて」よりもポピュラーな大阪方言を探すとしたら男性なら「わし」か少々品下って「わい」、女性なら普通に「わたし」あるいは「わたい」あるいはこれまた品下って「うち」になるだろうか。それから「まんねん」も微妙。語尾がはっきり「まんねん」と発音されるのは意外に少ないのではないだろうか。「〜まんにゃ」とちょっとにちゃついて使われる方が自然だと思う。

まあ大阪弁といっても中心部と摂津・北河内中河内南河内泉州各地とではそれぞれ微妙にあるいは大きく違う。また同じ地域でも生活階層によっても違ってくるから「標準的な大阪弁」というものは存在しないのであるが。で「南河内(大阪南部)準農村地域」のネイティブであるわたくしSIVAが”Let it be”を意訳したらこんな感じでしょうか。

(SIVA訳)

もうどないもやってられんわ!っちゅうてたら

聖母マリアが飛んで出て

ええことゆうてくれはってん

「そのままでええやんか」

目の前まっくらけやったわしの前に立って

ええことゆうてくれはってん

「そのままでええやんか」

「無理せんかてええやんか」

耳元でええこと囁いてくれはった

「そのままでええやんか」

「そのままでええやんか」

「あんたはあんたのままでええ」


・・・う〜ん、いまいちかな?

余談になるが、”愛国心”と称するものは「山河と母語」に対するもの以外はほぼ全て不純なものであるとわたしは考えてる。エライさんに「自国の歴史や文化を尊重する心を持つべきである。」などと説教されても、彼らいうところの”歴史や文化”は畢竟征服者の記録であり、アイヌモシリやウチナーのひとびと、そして多分わたしの祖先もそうであるような被抑圧者が自らを抑圧したものたちの歴史や文化を讃えなければならないいわれなぞはこれっぽっちもない。そんなもの、尊重しようと軽蔑しようと個人の自由に決まってるではないか。さらに言えば、自国の歴史や文化を尊重する心を持てと主張する保守論客にこそ自国の歴史や文化に対して自らの主張を裏切る振る舞いを見せることが多々あるのはどういうことだ。最近でもワシントンポスト紙に掲載された例の慰安婦問題を巡る意見広告上の賛同署名が全員「名・姓」の順になっているのを見せられ非常に不愉快な思いをした。賛同署名をした保守論客の多くは常日頃「日本の歴史や文化は世界に誇れるものであり若者はそれを学ぶべきである。」と主張する人士であり、また「別姓婚は日本独自の家族観を破壊する。」などと「姓」の重要性を主張する人々でもある。

わたしは自らの名を「名・姓」の順に署名することや呼ばれたりすることに違和感を感じない”愛国者”は取りあえず信用しないことにしている。