アンドロイドのエロス。
全てのセクシュアリズムはフェティシズムである。
なんでそんなことを思うようになったかというと、ある人物の「わたしが好きになる対象は性別ではなく体型である。」という述懐を知ってからだ。この人は周囲からはいわゆるバイセクシュアルだと思われているのだけど、本人曰わく「私がエロスを感じる基準は男か女かではなく太っているかどうか。」だというのだ。でこれを読んで目からウロコが落ちる思いがしたのだった。つまり誰もが対象に「エロス」を感じるかどうか常に天秤にかけていて、ただその天秤の支点が「男性か女性か」「ポチャかスレンダーか」「ぶちゃいくか綺麗か」「SかMか」などのように人それぞれ異なっているだけでそれぞれの天秤そのものは等価ではないか、と考えるようになったのだ。
それ以来「世の中に変態などいない!というか人類みな変態」というのがわたしの基本スタンスになった。さらにネットの海を彷徨っているうちに私にはうかがうべくもないエロスの価値基準が世の中には実に多種多様に存在していることを知り、わたしの「人類みな変態」史観はますます強固になってきた。
で人間の数だけあるフェティシズムのひとつに、四肢のいずれか、あるいは全てを欠損している異性もしくは同性にエロスを見いだす「Amputees lover(四肢欠損フェティシズム)」と呼ばれるものがある。Amputees loversが好むイラストや写真を見ても私には「???」でエロスとはつながらないものだったけど、Lisa Bufanoのダンスを見てAmputees loversの天秤を少し感じた気がした。彼女のダンスには不思議なエロティックさが漂ってる。下の映像での家具とも人体ともつかないフォルムから放たれる彼女のメッセージは挑発的だ。
子どもの頃、「自分がもしアンドロイドだったら?」などと考えることにかすかなエロスを感じた時期があり、また同じようなことを人からも聞かされたことがある。塚本晋也の「鉄男」という映画なぞはまさにそのようなエロスを映像作品にしたものだと思う。スピルバーグの「A.I」にも同じようなフェティシズムの片鱗を感じる。肉体の一部が無機質な物体に置換されることにエロスを感じる回路は誰しも奥底に持っているものなんだろうか。