名無しの肉体。

以前お尻の拭き方が性別によって違う傾向がある、ということを書いた。
要は
1)四角く折り畳んだ紙で拭く
2)ボール状に丸めた紙で拭く
の二大勢力があり、それぞれ性別によってどちらかに偏る上に自分のやり方以外の方法を想像していなかった、というはなし。

ことほど左様に異性間には深い溝が横たわっていたりするわけだけど、つい先日もとある女性と交わした「女性には自分の性器を表現する自分たちの言葉が無い。」という話題もなんだか随分考え込んでしまった。だって自分の身体の一部なのにそれを適当な言葉で表現出来ないなんて男性には想像出来ないんだもの。

女性には自らの性器に呼び名を付けることが出来なかった、そして男性が使う女性性器の名称が性行為を表す単語と同じである、というのは正に女性の性器が自分のものであって自分のものでなかった、言い換えれば男性の所有物であった歴史の産物でしかないとわたしは思うし、女性たち自身が自分の性器のことをポジティブに語れる世界の方が男女(もしくはそのどちらにも属さない人々)ともに住みやすいんじゃないかとも思うのだけど、では現代の女性器を持つ人々はそういう言語状況をどう感じているのか、というと今のところ「ちんちん」の持ち主である私には想像がつかないのだ。

というようなことをつらつら考えていたら思い出したのが、私が小さい頃は祖母や母親が成人男性のいないところでは割合気楽に女性器の俗称を使っていたよなあ、という記憶。そしてそれは男性たちが使わない「おんな語」だったような気もするのだ。祖母や母親の時代は女性の性のあり方が今よりずっと抑圧的だったはずだけど、彼女たちが属していた農村の「おんな社会」の中ではもしかしたら今よりもっとしたたかで猥雑な性が語られていたのかもしれない、なんてことも思ったりもする。

多様な性のあり方を望む人々に対して既得権を手放したくない保守的な人々の批判的な声が絶えないし、どころか「現代は女性が優遇されすぎていまや男性差別だ!」「これ以上女のセックスが解放されてどうすんだ!女は女らしくつつましやかに!」なんてトンチキなことをわめき散らす御仁も珍しくない昨今ではあるけど、自分の所有するものに名前を付けて呼べないなんて、開放的な性のあり方どころか女性のセックスが女性自身のものになんか未だになってやしないと思うのだけどどうなんだろう?