邪馬台国畿内説なわたし。

 って歴史の話をしようっていうわけではなくて。
「人は見たいものしか見ない」っていうのに例外はなく、私もそこから逃れられないことはよくわかってる。自分に気持ちイイ方向に惹かれるのは複数の人々と言論を交わす時も同じで、自分が好感の持てるパーソナリティの持ち主の言論には説得力を感じ、逆に好きになれそうにない人の言論はその内容が正しくてもなんだか受容するのが悔しい気がする。

 あまり適切でないたとえ話をすれば、正しい言論を展開するみのもんたと間違った言論を展開する笠智衆のどっちを支持するか、というような場面に人は常にさらされているわけで、ともすれば笠智衆の方になびいてしまう自分がいること、そしてそれはとってもヤバイのだ、ということを自覚しておかなければ、と思うのだ。

 その話がなんで邪馬台国かというと。
邪馬台国はどこか?という色々な主張を素人ながら検討してみるに、知性の部分では九州説に説得力を感じているにもかかわらず「畿内であってくれ!」と願ってる自分がおりまして。
 それは単に生まれてからずっと関西に住んでるということから生じた感情であり畿内説の正しさになんら寄与しないことを自覚することで、ともすれば笠智衆になびきそうになる自分をクーリングダウンさせているという、個人的なトリガーの話。

 遠回りな話ですみません...。