「貧乏」と「貧乏くさい」は違う。

またまた車ぶつけられた。今の黄色いホンダ・ビートに乗り換えてからこれで三度目だ。その前乗ってた赤いビートでも一度追突された。いずれも私は停車している時。どういうこと?
お陰様で走行18万キロの太古車なのにバンパーとボンネットはいつもピカピカ。上記の四回以外にも車検でディーラーに預けている間に二回ぶつけられていて、あまりの仕打ちに流石に激怒したら板金修理とともにボロボロだった幌を新品に張り直してくれたのでこれまたピカピカ。どうも損してるのか得してるのかよく判らない。

そんなわけで今はレンタカーの旧型ダイハツ・ミラをあてがわれているのだが、昨今の軽自動車は取り回しのラクチンなコンパクトサイズなのに車内空間は広大、そしてよく回るエンジンと充実した快適装備で近距離を走り回る道具としては申し分ない。カーステレオもエアコンも、パワーウィンドウだって付いている。だがしかしなんて貧乏臭い車なんだ。乗っていて夢も希望も感じられない。なんだか「お前らならこれで必要にして充分だろ?」ってなめられてる感じ。この車をデザインした人間の、「こんな人が乗ってくれると嬉しい。」「こんなシーンで使って貰えると嬉しい。」という言葉がどこからも聞こえてこないのだ。

「プアマンズ・ミニ」と揶揄されながらホイールを裏返しに履いてワイドトレッドにしたホンダN360を駆る若者は貧乏臭くなかった。
鉄板むき出しの車内にはクーラーもステレオも無く、そしてアリバイのようなリアシートによる軽貨物登録というコロンブスの卵を立てて50万円以下で買えるようにした初代アルトは貧乏臭くなかった。
当時の社長をして「こんな車のカッコしてないもん売れるのか?」と訝しがらせながらも若い開発者が自分たちの欲しい車の絵を描いた初代ワゴンRは貧乏臭くなかった。

「貧乏」と「貧乏くさい」は違うのだ。
「貧乏」でも夢を持つことはできるけど、「貧乏くさい」は夢の反対側にある。
「デザインをすること」とは「夢」をカタチにすることだ。
カーデザイナーたちは「車のデザインを出来る」という私には立てない素晴らしい舞台にいるのだから、もっともっと楽しい夢を持って欲しいと思う。