エレキな会話では体温を感じられない、か?

参院選終わり痛し痒しな結果。
自公政権の暴走のスピードが多少は緩くなるかと思えば喜ばしいのだけど、かといって勢力を伸ばした民主党には自公以上にファナティックな「”愛と自由”が嫌いな人たち」が大量に在籍しており安心など全く出来はしない。そして、わたしが当選して欲しいと願ってた人々が落選した替わりに元教師の変節漢や無定見な元アナウンサーやテンガロンハットを被った勘違いオヤジが当選し、なんだか索漠とした気分。のみならず、かの「最高権力者」は「”私”の内閣」「”私”の国づくり」などとこの国を私物視するような妄言を吐き一向に退場する気配が無い。「私」は我々国民であるはずなのだが。

昨晩はCD「ぜいご」を聴いてからその歌声に魅せられている鈴木常吉さんの来阪ライブに参戦。
へなちょこな大将が切り回す小さな居酒屋の片隅にしつらえたステージでのライブだったのだけど、酔っぱらった人々の話声や板場で炒め物を作る音が常吉さんの歌にはよく似合ってた。
一緒に行くはずだった友人が所用で不参加だったので独り寂しく出かけたのだけど、ネットでやりとりしたことのある方と遭遇(というか大阪でのライブを企画した方)し、同じくネットでちょっとやりとりした常吉さんご本人も交え下らない話で盛り上がってしまったのだった。(下らない話とはいえ親しくおしゃべりしてしまった後では以前のエントリーのように呼び捨てにはしにくい気分。だから「さん」付けなのだ。)

最近ネットでやりとりした方とオフラインでも出会ったりやりとりすることが増えた。
いまさら珍しいことではないしわたしも今更そのことに特別な感覚を抱くことはないけど、よく考えてみたらこれはすごいことではないかと思う。
ネットが普及してからこの方、これまでのどの時代にもない人と人の出会い方が起きているのではないだろうか。たとえばわたしのこの過疎地のようなブログにさえこれまで二万人以上の方々が訪れてくださっている。(もちろん同じ方が何度か来られていることがあるので単純に二万人という訳ではないのだけど。)これまでのような紙媒体などの手段では二万人の人に文章を読んで貰うのは並大抵のことではないはずだ。

ネットでのコミュニケーションをノイズでしかないように言う論調もあるし、それも判らないでもない。どれだけ多くの人々が出会おうと、お互いになんらかの影響を与えることが出来なければ消費され消えゆくただのノイズでしかないし、私の文章だってどちらかと言えばネットに数多あふれるノイズに近い代物だと思う。それでもいくつかの出会いは残っていくだろうし、それは私個人には大きな影響を与えるはずだ。

道具は道具でしかないが、道具を使って起きる色々な事は人を変える。ネットで色々な人々と話したり出会ったりしたことで少なくとも私は世界が狭くなるのを感じたし、どこの国であっても人々は同じように喜んだり悲しんだりしてることをリアルに感じるようになった。「相手の体温を感じる」という意味では顔を見て話をすることにしくはなしという人は多いと思うけど、未知の人と出会うことがこんなにも容易になった今という面白い時を楽しまないのはもったいない。