「世間」の快感のままに。

仕事をサボってたツケが集団でやってきてヒーヒー言ってるのに。
前売りを買っていた友川カズキのライブに参戦。

凄かった...。
以前なぎらけんいちが「友川はギターのチューニングが出来ない。」って言っててそりゃ大袈裟だろ、と思ってたらホントだった。最後の歌の前に弦が一本切れたので自分で張り替えるのはいいのだけど、全然巻き足りてないのに首をかしげて緩めてる。あげくの果ては納得しない表情のまま1オクターブ下で合わせてしまった。そして内心「あ...。」って思ってる観客達を置き去りにしてとんでもないチューニングのまま絶叫。それでも聴かせてしまう、いや聴かされてしまうのはどういうことだ?

かつて大島渚が友川の歌を評してこう言った。

友川かずきのうたが胸にしみいるとしたら、君は幸せだと思え。涙があふれたら、君は選ばれた人間だと思え。君にもまだ無償の愛に感応する心が残っていたのだ。無償の愛がまだ人の世に存在すること、それこそが友川が身をもってあがない、あかしてくれたことなのだ。(後略)」

わたしは選ばれた人間などとはつゆとも思わないし、その他大勢の中の平凡な一人に違いない。しかし同時にわたしという人間は唯一の存在であり宇宙の中心であるはずなのだ。同じように自分以外の他人も大勢の中の平凡な一人であると同時にそれぞれが宇宙の中心であると考えることが出来るのが人間の進化のカタチであると考えてもいるのだ。

デタラメなライブを喰らって上機嫌な夜になんでこんなことを書いているかと言うと。
もの凄く不愉快な文章を読んでしまったからなのだった。

橋下徹のLawyer’s EYE : 私が提訴されたことにつきまして

「世間」だって?
こいつは一体何を言ってるのだ?
この男が言及している殺人者のしたことは許し難いことには違いない。だがこの殺人者でさえも「大勢の中の平凡な一人であると同時にそれぞれが宇宙の中心である。」とするのが近代の法律であり、その恵みがいかなる人の上にも公平に与えられるように働くのが弁護士というものの仕事ではないのか?”「刑事弁護人はたとえ国民全員を敵に回しても、被告人の利益をはかることが職責である」というカビの生えた古い題目”?無関係な見物人達の無責任で不安定な応報感情を法廷運営に取り入れろとでも?

私だってこの事件の話を聞いて穏やかではいられない。利己的な殺人犯や強姦犯など生きる価値が無いなどという感情は私の心にもいつもつきまとう。そんな感情を抑えて全ての人間の命を等価だと考えるのは大変な苦しみを伴うものだと思う。リンチに参加する方がずっと楽だ。

だけど。「殺人犯や強姦犯など生きる価値が無い。」という感情は「ホームレスは野垂れ死んでも仕方ない。」「重い障害を持つ者は生きてる意味がない。」「自分の知らない人々が戦火で命を奪われていても関係ない。」という感情とつながるものだ。

苦しくても先へ進もうとするのが人間の進化ではないのか?