死刑の権利と義務。

「犯罪者の人権ばかり守られていて被害者やその遺族の人権がないがしろにされている。」って言葉が死刑制度存続を望む人々の口から語られる。

あなたは加害者の死刑執行によって遺族達の心がどう癒されたのか見届けたのか?
あなたは遺族達の復讐心を後押しし尻馬に乗って大声を上げた後、彼ら遺族達の苦悩を分かち合うために何をしたのか?
安全地帯の高みから「ムカツク奴を吊せ!」と叫ぶことが「被害者やその遺族の人権を考える」ことなのか?

鳩山法相の「ベルトコンベヤーって言っちゃいけないが、乱数表か分からないが、客観性のある何かで事柄が自動的に進んでいけば(執行される死刑確定者が)次は誰かという議論にはならない」「だれだって判子ついて死刑執行したいと思わない」っていう発言。ブログや掲示板などをかいま見るに随分多くの人々がその発言を支持してるようだ。(現にここのコメント欄にもそういう主旨の書き込みをしてくれた方がいる。)

コメント欄でも応えたけど、何度でも同じことを書く。

例え凶悪な殺人者であっても一人の人間を殺すことは多くの人々に大きな苦悩をもたらすはずだ。それは例えば死刑囚の家族や知人あるいは周囲の人々、死刑判決を下した裁判官、そして絞首台の踏み板を外すボタンを押す刑務官達に。本来その苦悩は特定の誰かに背負わせるのではなく社会全体で背負うべきものであるはずだ。我々ひとりひとりが死刑判決を下し死刑囚を絞首台に吊さなければならないはずなのだ。我々に死刑の権利があるなら義務も伴うはずだ。それが出来ないから法務大臣や裁判官や刑務官に強大な権力を預け苦悩を引き受ける義務を代行させているのだ。

あなたは個人的にかかわりのない人間の命を奪うことが出来るか?
それを他人にさせているのだ。死刑制度の存続を望むなら人間の命を奪う苦悩を分かち合う覚悟を持つべきだ。その覚悟を持たずに「奴を吊せ」って何故言えるのだ?

私が愛する人を残酷な方法で殺されたら、加害者が生きているのが許せないだろうと思う。多分死刑判決を望むだろう。でもその加害者が死刑執行されて自分の心が少しでも癒されるかどうかは想像も付かない。想像出来るのは、社会が復讐心ではなく苦しみを分かち合ってくれるなら少しは心が癒されるかも知れない、ということだけだ。

「被害者の遺族の人権」を声高に叫ぶ人々から、遺族の苦しみを分かち合える仕組みをどう創り上げていくべきなのかを話し合う声が聞こえてこないのは何故だ?