ハッスル!ハッスル!

テレビ放映を知らずにいて見逃した「ハッスルマニア2007」が、とあるアップロードサイトに上がっていたのでありがたく視聴させていただく。

いや、「ハッスル」って永年のプロレス者にある種の答えを迫られるイベントですね。(「ハッスルってなんだ?」って方はこの辺を見てもらうとして。)プロレス者なら一度は苦しめられた、周囲の心なき人々による「八百長」「茶番」のそしり。それに対するこれまでの「受けて魅せるのがプロレスなんや...。」という力無き抗言の遙かあさってを行く「ハッスル」の試合内容。だって格闘技経験者に関節技で勝つアイドルって。さらにはザ・エスペランサーなるレスラーの発する殺人光線が誤爆して中継カメラマンが殉職って。話だけ聞くと「茶番そのものやんけ!」と言われても仕方ない。

そういう方にはいつもこう応えるのです。「プロレスとは”誰が強いのか”を観るスポーツではなくて”誰がカッコイイのか”を観るエンターテインメントなのだ。」だから、たとえアスリートとしては成り立たないレスラーであっても、その姿が”カッコイイ”のであれば彼(もしくは彼女)はスターとして賞賛され、はたまたいかにアスリートとして優れていても表現力を持ち合わせていなければ「ショッパイ奴」と評価されるジャンルなんだと。
アメリカに於ける最大のプロレス企業WWF(現WWE)を題材にしてヒットしたドキュメンタリ映画ではバックステージでスターレスラー達が試合運びを打ち合わせしてる光景まで公にしたにもかかわらずWWFの人気が下降しなかったばかりかかえって火がついたのも、虚構を虚構として楽しむ人々のアメリカでの層の厚さを示していると言えましょう。(ちなみにそのドキュメンタリ映画Beyond the Mat[邦題:ビヨンド・ザ・マット]はめちゃくちゃ面白い。プロレスに全く興味のない人でもレスラー達とその周囲の人々のただごとじゃない人間模様に魅了されるはず。ここに映画評論家(?)町山智浩氏のこれ以上ない的確なレビューが転載されているのでよろしければどうぞ。)
そういう意味でいうと「ハッスル」は観客が”虚構を虚構として楽しむ”という空気にまだ慣れていないきらいがあるし制作側ももっと吹っ切れて欲しいところ。観客に虚構を受け入れさせる説得力をさらに表現出来れば「プロレスなんて茶番」などと軽侮している人々をも魅了するショーになるだろう。

でいきなりデザインの話に変わるのだけど、デザイナー同士の会話でいわゆるヤンキーやファンシーテイストのものに対して「ダサイ」などと嗤う光景はよく見られるし私もともすれば口にしてしまうのだが、自分個人の嗜好は別にして、異なるジャンルのものに優劣を付けるのはデザイナーとしてふさわしくない行為だと自らを戒めている。というのも文芸編集者にしてプロレス者である村松友視氏がかつてプロレスを「茶番」と蔑む人々に対して主張した「ジャンル間に貴賤なし。ジャンル内に貴賤あり。」という言葉はデザインという仕事に於いても真理だと思うようになったからだ。わかりやすく言えば、青山を颯爽と歩いてるプランナー氏のファッションスタイルと岸和田のヤンキー氏のそれのどちらが「上」かを属性で決めるのは職業人たるデザイナーとしてナンセンスであるということだ。青山のプランナー氏が「とりあえず”オシャレ”とされているブランドの服を身につけていれば無難」というセンスでいるならばそれは「ダサイ」し、岸和田のヤンキー氏が自らの選択眼でこだわったジャージに身を包むならそれを「シブイ」と評価できるデザイナーでいたい。

「ジャンル間に貴賤なし。ジャンル内に貴賤あり。」
これはスポーツプログラムやファッションセンスにとどまらずかなり普遍的な真理であると思うのだけどいかがでしょう?もっとも「異種格闘技戦」となると話が別になるのがややこしいのだが。

追記:
わたしのそういう価値観からすると、とあるノンフィクション文芸賞の候補作にあがった作品が若き女子プロレスラー達を題材にしたものであったことに対して、審査員として「プロレスなどという知性と感性が同時に低レベルにある人間だけが楽しむことができる娯楽を題材にした作品に相対的な価値は見いだせない。世の中にはもっと取り上げるべき素材があるはず。」と評した立花隆への評価は地に落ちたままである。

追記2:
余談だけど、自らの職業倫理を否定する人物が大阪府知事選に立候補しそれが当選するかも知れない悪夢にここ数日かなり憂鬱。