0と1になったわたし。

このところ、かのSECOND LIFEセカンドライフ(以下SLと略)の中を歩き回ってはいろんなところを覗いてみたりいろんな人と話をしていてブログの更新が滞ってしまった。

今やSL失敗論があちこちで語られているようだし、あれだけ書店に並んでいたSL解説本もほとんど見かけなくなった。実際去年アクセスしたときには結構人ごみ状態だったビギナーのための”街”が今ではゴーストタウンのようだ。またいずこも閑古鳥の鳴く状態の企業SIM(SIM=バーチャルな建物を建てたりイベントを開催したり出来るサーバ上の領域のこと。)を見ればマーケティングやパブリシティの効果を期待していた企業人から見れば完全に期待はずれだったと言えるのではないか。

私も久しぶりにアクセスして現在のSLの”惨状”を見た時には「うわ、どうしようもないなあ...。」って思ってしまったし、また「仮想通貨」を所有していない無料アカウントの身ではほとんど何も出来ないことを思い知って結構侘びしい気分にもさせられたのだった。またSLが普及しない理由のひとつとして論者の言う「SLを楽しむために必要なPC環境と操作スキルのハードルが高すぎる。」には大いに納得する。とにかく無一文だとまともな姿にさえならないアバター(自分の分身)と、またそのアバターが思うように動かないことにひたすらストレスが溜まるのだ。

そんなわけで私も「こりゃだめだな...。」という結論を出しそうになったんだけど、最近になって結論を出すのはちょっと早いのではないかと思って来た。そしてネット論者達が言うSLの「ハードルの高さ」が逆にこれからのSLの可能性を示してるのではないかとも。
それはハードルの低さによって誰でもが参加出来ることにより生み出されるノイズではなく、ハードルの高さを楽しむ人々が生み出すクリエイティブな「何か」があとに残る価値を生んでいくのではないか、ということだ。誤解を恐れずにかつ大げさに言ってしまえば、これまで世界を面白くしてきたのは何かが起きるのを待っている1000人ではなく何かを起こそうとしている10人だったはずなのだから。

もちろん利益を生み出すことを主目的とする人々からすれば何を生み出すかわからない10人よりもお金を使うのを待ち受けてる1000人に目がいくのは理の当然で、SLを経営してるリンデンラボ社も収益を上げられなければSLから手を引くだろうしそこが悩ましいところでもあるわけだが、それでも「何かが起きるのを待っている1000人」を対象にしたビジネスはもう跡に荒野を残すだけなんじゃないかなあ、とも思っている。SLを失敗と言う人々が逆に成功例としてあげるニコニコ動画初音ミクにしろ、そこに群がっている「何かが起きるのを待っている1000人」からどうやって利益をあげたものか、みんな(ドワンゴやクリプトンなどの当事者以外は)四苦八苦してるみたいだし。

まあそんな小難しいこと考えるより一度は試して見る価値はありますよ。操作の難しさによる初期のストレスを乗り越えると何とも言えない感覚を味わえる瞬間がやってくる。
かのティモシー・リアリーは生命情報のデジタル化による不死を夢想してたそうだけど、そんなことが実現するのはきっとまだまだ気の遠くなるような先の話。でも、SLの中の街を歩いて世界中の人々と”立ち話”していると0と1で作られた自分がふと一人歩きを始める一瞬があるのです。

↓荒涼とした麦畑で茫然とたたずむ0と1のわたし。