感動なんてしたくない。
背の低い人が背の高い人に棚の上の物をとってもらうこと。
瓶の蓋が開かないときに握力の強い人にあけて貰うこと。
よくある光景。
して貰った方が軽い感謝を贈り、した方がそれを軽く受け取る。いちいち「して貰うグループ」と「してやるグループ」に分けて考えたりしない。
誰も背の低い人に「少しでも高いところに届くようになれ」って言わないし、握力の弱い人に「もっと握力をつける努力をしろ」なんて言わない。
同じように、重いハンディを持つ人の「高いところにあるもの」や「固くて開かない蓋」を社会が代わりに取ったり開いたりする。
して貰った方が軽い感謝を贈り、した方がそれを軽く受け取る。
それで充分なはずなんだけど。
ハンディを持つ人が”頑張る”とニュースになる。ハンディを持つ人が”頑張る”姿を見て感動する。よくある風景。
でもそれっていつも心のどこかが少しだけ後ろめたい。
ハンディを持つ人がハンディの無い人と同じ事が出来る姿、あるいはそれ以上のことが出来る姿に感動する。
それって”名誉健常者入り”の拍手に見える時がある私はすごくひねくれた奴なんだろう。
ハンディがあろうがなかろうが、いい奴はいい奴でいやな奴はいやな奴。
すごい奴にはただ「おまえ、すごいよ!」って拍手すればいい。
感動なんてしたくない。