全ての感情は等価である。2

 行きつけの中華料理屋で中華丼を食しながら備え付けの新聞を眺めていたのですが。
 投書欄に目をやると「青少年による凶悪事件が続き人々の心もすさんで見える昨今道徳心の向上が求められる云々」との善良な市民の嘆きが。

 ああ、ここでもまた。

 この国の青少年の犯罪は近年減少の一途をたどりまた殺人事件の発生が2007年では戦後最低となったことを知った今では、その言葉は何も言ってないのと同じだ。たとえそれが少しでも暮らしやすい社会になって欲しいという善なる心からの言葉だとしても。そしてその善なる言葉は「小学校での道徳テストの実施」なる愚かなものを呼ぶ助けになった。

 人の感情それ自体に優劣をつけることなんて出来はしない。
たとえば光市の母子殺人事件の犯人を憎む感情をメディアによって事件を知った人々の多くが抱いただろう。そういう人々が叫ぶ「犯人は死刑になって当たり前」という言葉も”善なる心”が言わせたに違いない。私にはその「感情」そのものは間違っているとは言えない。

 一つのものごとにある人は感涙に噎びある人は激怒する。
感涙に噎ぶか激怒するかの天秤の支点の位置は百人いれば百箇所ある。その支点の優劣の判定など誰にも出来はしない。だからこそ全ての感情は等価なのだ。そう、この世に「かわいそうな人」などいない。「かわいそうな人だと感じた自分」しかいないのだ。

 ただ人はその感情がどのような情報の入力によって生じたのかを自省することは出来る。また誤解を恐れずに言えば、その自省の力に優劣を付けることは出来る。
 たとえば前述した光市の事件。公判で記録された事件の形とメディアで語られる事件の形の驚くような差異を知ろうとせずに軽々と「犯人は死刑になって当たり前」と叫ぶことは何を生んでいるか。

 「共感」するのは簡単だ。なぜなら自分一人でできるのだから。
 わたしは「自省するための情報を共有しその精度を上げる」ことを求めてネットの中にいる。共感するためではなく。