医師が命を救う意味。

 光市の母子殺害事件の差し戻し審で被告に死刑判決が出た。

 ニュースに対するMIXIやYAHOOでのコメントは「死刑判決は当然」という声が圧倒的で、ひどいものになると「祝死刑」などと書いている人までいる。そして即時上告をした被告人と弁護団に対しても「鬼畜」だの「人権ボケ」だの「死刑制度反対派の私利私欲」などとこれまでと同じように罵声が浴びせ続けられている。遺族の方が判決前の記者会見で「個別の事案で世情に合った判決を出す司法になってくれれば」と語ったように、まさに「世情」通りの判決だったといえるだろう。

 だが一体「世情」ってなんだ?

 私とてこの事件のことを耳にした時にはやりきれない思いをしたが、それでも私に確実に言えるのは「一人の人間の愚かな行為によって二人の人間が命を失った」いうことだけだ。なぜならマスメディアで描かれるこの事件のかたちと弁護団の一員によって開示された公判記録の一部から読み取れる事件のかたちのギャップを知るだけでも、私達は実際に起きたことを知る位置からはほど遠い部外者に過ぎないことをつきつけられるからだ。

 マスメディアのフィルターを通した情報を捨て去れば、私達にとってこの事件の被害者はたとえば通りがかりの若者になぶり殺されたホームレスの老人と本質的には変わりはしない。
 違いがあるとすればこの事件の被害者にはマスメディアを味方につけた遺族がおり、ホームレスの老人には悲嘆にくれる人もなくいわばマスメディアにとって商品としての魅力が無かったということだけだろう。

 私の住む街では「刑事弁護は”世間”を納得させるものでなければならない。」と主張する弁護士が知事に選ばれ、そして今回の公判では事実認定を争ったこと自体を「反省の色が無い」とする、つまりかの知事が弁護団を非難したのと同じ論理が死刑判決の根拠のひとつにもなった。

 これからの私たちは法廷での弁護を受ける前に「世情」の納得を得ることが必要になったのだ。それはあたかも「世情」が納得しない限り命を救わない医師や火事を消火しない消防士しかいない国に住むがごとく。