空気を読むな。

 読んでわかる人をきわめて限定するエントリーで恐縮なのですが。(MIXIから来られた方はスルーよろしく。)


 以前「水からの伝言」にまつわるブロガー同士の対立について書いたのだが、発端となったいざこざが沈静したと思ったら実は形を変えてまだまだ続いていて。(形を変えて、というのは、前述の対立の一方の当事者であったBさんが退場のあと今度はAさんとAさんの言動を支持するCさんに対しての複数の人々の批判とそれに対する反論の応酬に、である。)で私もそれについて発語したからには当事者であると自覚して色々な人々と言葉を交わして来たのだった。


 私とて「イヤな奴」と思われることは避けたいので言葉を選びつつ文章を綴っていたのだが、ある方から下記のような批判をいただいた。


↓ここから引用

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 問題は、意図せざる結果として、論理の恣意的な濫用が一人歩きを始めてしまったことだ。自分が気に入らないというだけの意見を「論理的でない」と言って切り捨てる行為が、まるで正当であるかのように罷り通っている。論理を掲げること、もっと端的に言ってしまえば、論理派を自称することが、非常に安易な思考停止の装置と化してしまったのだ。論理という言葉の持つ心地よさだけが作用している状況は、途方も無く貧相だし、グロテスクでさえある。

 「これほどまでに論理を貶める行為、論理が貶められている状況を、どうしてSIVAさんは平然と看過出来るのか」

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↑引用ここまで


 「論理を貶める行為」「論理が貶められている状況」とは誰のどのような発言をさしておっしゃられているのかがよく判らないのだが(彼のブログ内で上記の批判に反論するのをやんわり断られたのだ。)、彼が「論理を貶める行為」「論理が貶められている状況」という印象を受けたとおぼしき一連のやりとりに対して、私は自分の立ち位置を発語するのみで誰かの「ヒドイ言葉」を批判することをしなかったのは事実だ。のみならず「ヒドイ言葉」を吐いた人を擁護したと受け止められたかも知れないコメントも書いている。


 「クソ野郎」「ババア」。
いずれもヒドイ言葉だ。と同時に何も言ってないのと同じことでもある。単に発語した人の人格的な評価を下げるだけのことだ。その人の発言内容の是非を相殺するものでもない。私が「クソ野郎」と発語した人の意見に同意したからといって「クソ野郎」という言葉に賛同したわけでもない。意味のない言葉に言及する必要を感じなかっただけだ。


 と同時に、「感動した」「共感した」「傷ついた」。これも議論をする上では何も言ってないのと同じことだ。同じくその人の発言内容を底上げするものでもない。


 違う文化や違うコミュニティの人々が議論する上では「クソ野郎」も「ババア」も「感動した」「共感した」「傷ついた」もノイズにしか過ぎない。熱く語られようが冷ややかに語られようがその熱さや冷ややかさも同じくノイズであって語られた言葉の価値を補強するものでも相殺するものでもない。議論に価するのは語られ方ではなく語られた言葉がどういった事実によって担保されているかだ。仲間うちでの世間話をしたいのでないならば。


 ネットで出会った私たちは価値観や生活背景の共有できる仲のいい友達同士ではない。同じ目的を持って進む集団でもない。顔も生活歴もうかがうべくもない他者とネットで議論するというのはいわば違う文化を背景に持つ外国人と議論をするのと同じようなものなのだ。あなたは顔も知らぬ外国人に文章の行間を読みとってくれとでもいうのか? 


 ノイズに自分を投影するな。鏡に映った自分と相撲を取るな。


 そして書いていないことまで勝手に読むな。