水のオルガン。


 モテタイ一心でなけなしの小遣いを貯めてアコースティックギターを買ったのは高校生の頃。腕の方はその頃からさして上達していないのが情けない。向上心もセンスも無いわたくし、もはや華麗なるギタープレイ姿でご婦人方を魅了する計画は放棄して久しいけど、それでも下手くそな演奏で好きな歌をがなり立てるのは無上の楽しみ。

 ギターに限らず音の鳴るものが大好きで、私の事務所には弾けもしないシタールバラライカ、あげくのはてはハルモニウムまで転がっている。そんなものだから「あー、楽器のデザインしてみてーなー」と所構わず呟いていたらひょんなことからアコースティックギターのデザインを依頼された。なんでも口に出して言っておくものだ。

 もちろんその仕事は大いに楽しんでいるのだが、自分が思い入れを持っているジャンルのモノをデザインするのは実は楽しいのと同時にとてもやりにくい仕事でもある。自分が欲しいモノの理想に近い形は既に自分の中で出来上がっているのにそこからコストや消費者動向の制約による引き算をしていかなければならないからだ。ましてやギターのように人々の中に既にスタンダードイメージが出来上がってしまってるモノの場合、そのイメージを乗り越える製品をデザインするのは並大抵の話ではない。

 また楽器のように幾世代にもわたって製作方法や演奏習熟方法が蓄積され壮大なものがたりが人々の間に流布している道具の場合、たとえそれが多少不合理なものであったとしても単により合理的であるという理由で構造や操作方法の変革を受け入れて貰うのは至難の業だ。生産するための道具ではない楽器では合理的であることがかならずしも美ではなかったりする。もちろん至難の業に果敢に挑戦するドン・キホーテが後を絶たないのは人の世の常で、たとえば世界最大の楽器展示会であるNAMMショーでも”俺の考えたばよりん”や”わたしのかんがえた笛”が毎年いくつもデビューしては大半はギャラリーに微苦笑だけを残して消えていく。

 そういったドン・キホーテ達の挑戦のうちわずかなものだけが歴史の試練に耐えてものがたりになっていくのだ。私も極めてささやかながらでもドン・キホーテ達の戦列に加わっていたいと思う。