属せない人々。2


 以前アップしたこのエントリに関して、コメント欄への書き込みやトラックバックだけでなく違う場所でも議論のとっかかりにしていただけたのを拝見した。それらを拝見して自分の記述の曖昧な部分を自覚出来たりあるいは自分とは違う視点に刺激を受けたり出来るのは大変有り難いことだ。

 もっとも一番実感したのは私自身の表現力の拙さで、「属せない人」という言葉に「選ばれし者の恍惚と不安」な選民臭を感じられたのは私の不徳の至りでもある。そういうチンケなプライドは私には全く無いなどと言うつもりは毛頭無いし、実際多数派をバカにすることでプライドを保とうとする”少数派”の姿は私も含めてあちこちで簡単に見ることができる(そこのMacユーザー。貴方のことですよ!)。

 わたしのチンケなプライドはともかく。
「属せる人」「属せない人」と書いたのは集団への帰属意識の有る無しの是非を問うためではなく、「属せる人」と「属せない人」間の非対称性を考えていただきたかったのだった(って偉そう..)。私の書いた「思いやり」「愛」「素朴な感情」「家族」「国家」「仲間」という言葉も、それらを”自明のものとする人々”と”自明じゃないかも知れないと疑う人々”の間で働く抑圧の方向を考えればランダムに並べたわけじゃないということもわかっていただけるだろう。

 ”思いやり”は持って当たり前という人々と”思いやり”ってそもそも何?という人々の間で働く抑圧の方向はどちらを向くか?”家族=善きもの”という人々と”家族ってそもそも何?”っていう人々とでは抑圧の方向はどちらを向くか?あるいは”国家=帰属するもの”なひとと”そもそも国家って何?”なひと。”仲間は大切 ”なひとと”仲間って何?”なひと。

”自明のものとする人々”と”それを疑う人々”の間で働く抑圧はいつだって一方通行だ。

 ネットで色々な人々の言論に接しまた直接色々な人々としゃべって得たものは、存在の非対称性を視点に入れてものを考えることだった。
 私自身がこの国で男性であるということがどういうことであるか。あるいは大人であるとはどういうことであるか。心身に障害を持たないということはどういうことであるか。衣食住に困らないということはどういうことであるか。いずれもそれに依った時私が容易に抑圧の一方向に立つことが出来る存在である、ということだ。

 「属せない人」宣言はわたしのチンケなプライドを満たすものではなく、”疑う”ことを止めた時は抑圧の一方向に立っている時かも知れないということを忘れないためのものでありたい。

追記:

 「属せない人」はメタな相殺言論を操る人への素朴な批判でもあるのだが、面白かったのはそれをもメタな相殺言論をもって批判する人の姿が見受けられたことだ。前のエントリのコメントでウヨクサヨクの対立に関心が無くなってきたと書いたが、私が対峙すべきはイデオロギーの違う人ではなく”メタみつを”なのではないかとの思いが最近固まりつつある。