バッドデザイン賞を!

工業製品をデザインしている年若い友人に「グッドデザイン賞ってどう思う?」と聞いたところ、「いやそれよりもバッドデザイン賞を創設してどうしょうもないデザインを万人に知らしめる方が重要でしょう。」と言う。確かに「これどういうこと?」なものが数限りなく市場にあふれている。

長い間愛用していたヘアドライヤーのターボスイッチ(なんで”ターボ”?)なるものが壊れてしまった。わたしは髪の毛に関しては解脱しているので頭を乾かすのに殆どドライヤーを必要とはしないのだが、たまに趣味の工作物を強制乾燥させるのに強い熱風が出ないと困る。
そんなわけで久し振りに家電量販店のドライヤーコーナーをのぞきに行ったのだが、しばらく見ないうちにドライヤー売り場は大変なことになっていた。
あのさ、ドライヤーをデザインした人たち。あなたがたはドライヤーをバイクショップででも売るのデスカ?ドレッサーの横に仮面ライダーの乗り物みたいなものを置けとでも?
はたまたマイナスイオン発生機能などと麗々しくうたわれても...。
色やマテリアルもすさまじい。

先鋭的なデザイン誌などで大企業のデザイン部門によるアドバンスドデザインモデル(製品デザインの未来像を示すためのもの)がよく掲載されていているが、いずれもとてもカッコイイ。製品化されればすぐにでも欲しくなるようなものばかりだ。
だがそれぞれの企業に於けるデザインへの考え方がもっとも現れるのはそのようなデザインモデルではなく、その企業のビジネスへの影響が小さい商品にこそ顕著に現れるのだとわたしは思っている。なぜならデザインに対する論理や倫理が、あるいは感性が確立している企業ならそのような末端の商品にまでそれが表現されるはずだからだ。たとえば、アップルのデザイン戦略に関しては賛否両論あるが少なくともあるひとつの感性を全商品通じて感じることが出来る。アップルがどんな暮らしを人々に過ごして貰いたいと考えているのかを製品を通じて感じることが出来るのだ。

かつてわが国ではソニーがそんな企業であると考えられてきた。
はるかむかし、大学の学食で初代ウォークマンのヘッドフォンを着けたとたん周囲の風景が一変したときの衝撃は忘れない。その後もソニーの端正な製品は次々に私たちを魅了してきた。ソニー製品が部屋にあるとなんだか自分がスマートになった気がしたものだ。その頃のことを考えると現在のソニーの凋落は信じられない気もするが、いま彼らが売っている製品群を見ているとソニーのデザインに対する論理や倫理や感性は市場の動向に左右される程度のものだったということがよくわかる。

結局ドライヤーは買えずに店を出た。