ふるやのもり。


 山の散歩をしていて見つけた古い木造校舎で昼寝をした。

 小さな体育館の日当たりのいい窓際に置かれた長いすに寝ころんで過ごすどうってことないひとときがこんなにも幸せなのはやっぱりどこか病んでるのかなあ、などと下らない事を考えたりしながらガラス障子越しの初冬の日差しの中でしばしまどろんだのだった。

 風もなく人も通らないそこで聞こえてきたのは家鳴りの音。なんだか久しぶりに聞く。ただ木造の建物がきしむ音なのにとても懐かしい。長いマンション暮らしで忘れかけていた音だ。

 子供の頃暮らしていたのはそれはそれは家鳴りの賑やかな陋屋で、寝床に入ってシーンとした中に時折響く「ミシッ」っていう音がとても怖かったし、それは何かの気配を感じさせられる音でもあったのだ。また、日中も薄暗いその家には私たち家族以外の気配が家鳴りだけではなくそこここにあった。それは便所(断じて”トイレ”ではない)に通じる廊下の隅っこであったり狭い裏庭に植えられた南天の木の根元であったり。確かに何かが居る気配がした。

 子供の頃のその「気配」はただただ恐ろしく出来れば去って欲しいものでしかなかったが、長じてわたしが廃墟や”いなたい”場所を見つければ足を踏み入れずにいられないのは、実はそういう「気配」を求めてのことではないかとも思う。廃墟や”いなたい”場所には無人にも関わらずなにかがささやきかけてくる「気配」がするのだ。

 現代の住宅や街に闇が無くなった事が都市の病理の原因のひとつと指摘する論調をときたま耳にする。それが果たして妥当かどうかはわからないし、またそうだとしてもそれが「昔はよかった」につながる話になるのでは面白くないが、廃墟や”いなたい”場所を探訪することが昨今若い人々の間でも流行っていたりするのは実は彼ら若者達も書き割りのような街から立ち去っていった何かの「気配」を渇望してのことではないだろうか、それならば新しく次々に出来る書き割りの街に再び「気配」を発するもの達に帰ってきてもらう方法はないのだろうか...。

 家鳴りの音を聞きながらそんなことを考えていたのであった。