「泣く間があったら笑わんかい。」


 仕事せねばいかんのについ逃避癖が出て撮り貯めた映画を観てしまった。いかんなあ...。

 観たのは1964年制作の古いモノクロ映画、「その男ゾルバ」。

 いやはや面白かった!
登場人物は亡父の遺産である廃鉱山を再興するためにギリシャの寒村に赴く若い作家となぜか彼に懐いてしまい「あんたはボスだが楽器を弾いて踊るときだけはオレを自由にしてくれ」という条件で強引に自分を雇わせる初老の小汚いオッサンゾルバ。彼らがやってきたのは共同体の論理による筋違いの私刑も身寄りのない人の遺産の強奪も平気な殺伐とした村、そこで起きる理不尽ななりゆきに従わざるを得ない若い作家とゾルバ。違うのは若い作家は苦悩するだけだがゾルバは苦悩しつつ女を抱き酒を飲みかつ唄い踊る。そんなゾルバに辟易しながらも彼を欠かせない友としてゆく若い作家。

 もうほんとうにゾルバを演ずるアンソニー・クインが暑苦しくて仕方ない。産まれた時から無精髭生えてたんじゃないかと思わせるベスト無精髭男アンソニー・クイン。その無精髭だらけの顔をいちいち接触しそうなぐらいに顔を近づけ作家に熱く恋を語るアンソニー・クイン。作家の信頼を実感して狂喜しテーブルの上で踊り出すアンソニー・クイン

 ゾルバはホテルの主人(初老の女性)をうまいことコマしてしまって現地妻を確保しちゃうヒドイ男なんだけど、その女性の若い頃の華やかな恋物語を優しく聞いてやっていながら半分ウソだとわかっているんだろうなとセリフを経ずに観てる人にわからせてしまうアンソニー・クインのきわどいところで知的でクールなのが素晴らしい。冷静に考えれば陰惨極まりないシチュエーションが続発するしツッコミ入れたくなるところも結構ある映画なんだけど全部アンソニー・クインの力業でねじ伏せられてしまう。白髪を隠すために頭に黒いペンキを塗ったゾルバを見て呆れる作家に「笑うけどおかげで俺は若返って元気凛々、若い女に参ったって言わせてやったぜ!」と得意げにニヤつくシーンに説得力を持たせるなんて、アンソニー・クイン以外の誰に出来るというのだ!?

 なにもかも失った二人が踊り出す有名なラストシーン。それまでいつも小難しい顔をしていた作家があまりの状況につい笑い声をだしてしまい、それをゾルバが「お!お前笑えたな?」と一緒に顔を見合わせて笑うところ、大阪人のいう「泣く間があったら笑わんかい。」ってのを思い出してしまった。開きなおりとも空元気とも絶望からともちょっと違う笑い。

 あなたが嫌なことでもあってしょんぼりしてるなら「その男ゾルバ」、少しは元気が出ること請け合いです。ちなみに原題は「ゾルバ・ザ・グリーク」。それを「その男ゾルバ」と翻案したのは実に秀逸。邦題を付ける手間を惜しむこのごろの映画会社の方々、先輩達のセンスを少しは見習ってください。

 しかし。前にも書いたリー・マーヴィンもそうだけど、わたしはなぜこうも小汚いオッサンが主役の映画が好きなんだろう。


 人民価格。


 わたしの住む地域はまだ月に一度粗大ゴミ回収の日がある。
その日の前日深夜には換金性のあるものを求めていろんな人々がやってくるのだが、同じく粗大ごみハンティングを趣味とする私も入り交じり時々世間話に花が咲く。

 そんな話の中で教わったのが、粗大ゴミの中で換金商品として一番人気があるのが意外にもミシンであることだ。それも求められるのはコンピュータ制御でたちどころにいろいろな縫い方が出来るというような最新の商品ではなく特定のメーカーの特定のモデルに限るそうで、なぜならそのモデルがひときわ丈夫で故障が少なくかつ修理が容易であるからだそうだ。言い換えればエンドユーザーがそのことを良く知っているということでもある。

 実は私は中古ものが大好きで、よほど消耗の傾斜の激しいものは別にして耐久消費財の多くを中古で購っている。もちろん財布が薄いということもあり、また現行製品に欲しくなるものがないということもあるのだけど、中古商品の価格は消費者の価値観が大きく反映されたものだから、ということも理由のひとつでもある。中古品の価格はいわば「買う方が価格を決める」商品である。製造者や流通者がいかにセールスプロモーションでモノの価格をふくらませようとも、中古市場に流通したとたんその思惑から離れ自由な値付けの対象となってしまう。

 まあ有り体に言えばわたしがしみったれなだけかもとも思うが、ちょっとだけカッコつけさせてもらえるなら、中古の品物を購うことはお仕着せの流通に対するささやかなレジスタンスであると言っておこう。

 写真は最近の粗大ゴミハンティングの収穫。正確に言えば知人の伝手で廃棄されるものをもらい受けてきたもの。ものすごい丈夫なクランプが付属していてテーブルなどに取り付けられるようになってる(歯無しだったので手近にあった歯茎をコーディネイトしてみた)。医療系の学生が実習で使うものらしいが、ホントにこんなハードコアな紳士を相手に歯石を取る練習してんのかなあ?分厚いアルミダイキャスト製で、無垢の金属塊に弱いわたくしとしては見逃すわけにはいかなかったのだった。いまデスクの両側で私と一緒にMacを覗きこんでいます。どなたかお一人いかが?


 またも負けたか八連隊。


 全国統一学力テストなるものが行われたそうで。その結果わたしの住む大阪の子供達が下から数えた方がはるかに速い成績を取ったことに橋下府知事が噴き上がっているようだ。なんでも「教育非常事態宣言」の発令も辞さずとか。

 元教育学徒のひとりとしては「知識と知恵とではどっちが大事やと思てんねん、おう?」とか「テストでは採点出来ん教育もあるんちゃうんか、おう?」とか「全国の小中学生共がそのテストでええ点取るようになるのんが”上がり”なんか、おう?」とか「そもそもサンプル抽出調査やったらなんであかんねん、そんなにベネッセ儲けさせたいんか、おう?」などと色々インネンつけたいところもあるし、また実際このテストの実施に凝議をとなえる教育関係者が多い調査でもあるのだが、それでも就学援助率が高い地域ほど平均点が低い傾向を示す結果が出たことで社会の階層格差の拡がりが顕在化したことなど、調査の結果を全く無意味なものとして捉えるのも勿体ない気もする。もっとも教育予算を削っておいて"教育非常事態宣言"を叫ぶメチャクチャな人物が知事として支持されてるのを見ると調査結果が大阪府に於いてポジティブな方向に活用されるのは絶望的に期待薄だとも思えるが...。

 そういう時にこういうことを言うと補給路を断たれた前線で戦う兵士の如き大阪の公教育関係者に叱られそうだが、わたしはこの全国統一学力テストで大阪の子供達がダメダメな成績だったことが実はちょっと面白かった。大阪がいかに地域経済が低迷化し階層格差が拡がりつつある破産寸前都市といえども富の集中度や情報集積度は他の自治体に比べてまだまだ高いはずだ。にもかかわらず大阪の子供の成績がやたら低かったのは学習習熟度の問題だけじゃないような気がする。

 日本に徴兵制が敷かれてたころ「大阪出身の兵隊は弱い」という風説を揶揄して「またも負けたか八連隊」という俗謡が流行ったそうで、実際にそうだったかはともかく「戦争なんぞアホラシ、命あってのものだねやんけ。」といかにも大阪人が言いそうな空気が象徴されていて私は好きなフレーズなのだ。大阪の子供たちが「全国統一学力テストなんぞアホラシ。」と思っての今回の成績だったとしたらやつらもなかなかやるじゃないか。ちなみに知り合いの中学教諭によると「このテスト、成績に関係あるん?」との質問が生徒達から続出したそうだ。

 属せない人々。


ブロガー同士のトラブルの一端に首を突っ込んでしまったゆえにここんとこずっといろんなひとのいろんな論議や表明や罵倒を見て来たわけだが。

 トラブルの中心におられて不愉快な思いをされた、あるいは今もされてる方々には叱られるかもしれないけど、私にとってはいろいろなことを考えるのに良い(?)きっかけになった。色々考えた末に得られたもののひとつは、わたしにとって「サヨク」と「ウヨク」っていう対立軸があまり意味を持たなくなったことだ。今回のトラブルで私が感じた対立軸を強いて言葉に代えるとしたら、「属せる人」と「属せない人」との断絶と言えるかも知れない。言い換えれば”自明の(ように見える)もの”に素朴なもたれかかりを持てるかどうかの違いだとも思う。

 ”自明の(ように見える)もの”とは時によって「思いやり」だったり「愛」だったり「素朴な感情」だったり「家族」だったり「国家」だったり「仲間」だったりするが、「属せない人」は属せないゆえにその自明性から生じるさまざまな抑圧を予感し恐怖する。「属せる人」の「思いやり」や「愛」は容易にたとえば「日の丸」や「君が代」にとってかわるように思えるからだ。

 属せない人は疑う人でもある。自明じゃないものは疑ってそして考えるしかない。自分の「愛」や「思いやり」を疑うことは不幸なことか幸福なことか。私にはまだまだ答えが出せそうにない。

 路側帯を急ぐひと。


 高速道路の出口付近等で渋滞に巻き込まれた時。
来るぞ来るぞ、て思ってると案の定恥知らずなドライバーが路側帯を走って渋滞の列を追い越してゆく。

 以前ならそういう車を見るとひたすら不愉快な気分になっていたのだけど、わたしも歳を取ったのか最近では「ああ、あの人は他者から尊敬を受けることなく人生を終えるのだろうなあ...。」と痛々しく思えるようになってきた。と同時に、路側帯ドライバーの多くは車に乗っていないときならかような恥知らずな行動は決して取れないある意味ヘタレな人たちだろうなあ、とも。生身で同じことをやろうとするには注意されても振り切れる厚顔さか逆切れして殴りかかれる凶暴さが必要だからだ。

 ネットで大声でわめくひと、他者を罵る人も路側帯ドライバーと同じだ。
ネットで他者に向かって「きちがい」だの「死ね」だのとわめいてる人。下品な当てこすりをする人。脅す人。なりすます人。オフラインで同じことやってる自分を想像してみるといいかも知れない。

追記:
 橋下氏敗訴の報に際してのMIXIやYahooメンバーの物言いの醜さに辟易していたところに恐山の院代だという方のこのエントリを読んで思わずぼやきに近いエントリを上げてしまいました。わたしは宗教法話というのはどちらかと言えば嫌いなのですが、この方の文章はとても面白いです。

それにしても橋下氏や前々首相の安倍氏の言動を肯定したがる人に限って”橋本”とか”安部”って書き間違えるのは何故?

 ブラジル人じゃなかったのね...。


 ここんとこネットニュースのヘッドラインにやたら「オグシオ」なる人名が踊っているのを見たわたくし、なんとなくメディアが懲りずに南米あたりの選手を無理矢理アイドルに仕立て上げようと煽ってるのだとばかり思ってました。

 「オグシオ」って小椋選手と潮田選手のペアのことだったのね...。それ知ったとたん口の中がざらざらするようななんともいえない恥ずかしい気分になったのは私だけでしょうか。「オグシオ」って口に出して発音するの、無理です。

 オリンピックに限らずスポーツメディアの食い扶持になったスポーツ大会って「自省」という言葉がどこかに置き忘れられたような空気感が充満していて私にはどうしても耐えられません。かあちゃん、へそ曲がりに育ってごめん...。