人はみなお遍路さんかも知れないね。

 遍路道を行った。といっても笈づるを着て歩いたわけではなく、散策した道程が遍路道と重なっただけなのではあるけれど。

 遍路道を進むにつれ笈づるを着たお遍路さんの歩く姿を頻繁に見かけるようになり、そして歩く人々の姿はいくらかの距離をあけながらも途切れなく続く。住宅も商店もどことなく慎ましやかに見える遍路道沿いの風景にとけ込んだお遍路さんの旅姿を見ていると、この日本という島のあれこれがどこまでも愛しくなる。

 私はこの国の為政者が人々の持つべきものとして言い立てるような”愛国心”なぞカケラも持ち合わせてはいない。「日本に生まれて良かった。」とか「やっぱり日本が一番。」等と言う無邪気さにいらだたせられるひねくれ者でもある。また「日本人」という呼称に常に違和感を持ってきた。「私たち日本人は」という言葉を聞かされるたびに「お前の言う”日本人”ってなんなんだ?」という問いを心の中で投げ返してしまう。

 にも関わらずやっぱり私はこの島の風景を愛しているし、この島に住む人々のことが好きだ。わたしにとってこの「日本」という島はどんなにチンケでショボくても他の島や大陸とは違う私だけの存在なのだ。そしてその気持ちは断じて「愛国心」などという陳腐な言葉で置き換えられるものではない。

 他の国や土地に比べて優れていなければ、あるいは美しくなければ、あるいは強くなければ。そんな「愛国心」のいかに浅薄で惨めなことか。私たちはこの島に偶然生まれあるいはたどりつき笑い泣きそして猥雑にしたたかに生き暮らしてきただけのこと。誇らしげに旗を立てることもなく決められた歌を唄うこともなく。

 金剛杖をついてゆっくりと穏やかに慎ましやかな道を歩む老人の後ろ姿を見てそんなことを考えていた。


 すべての武器を楽器に。


 外形デザインをお手伝いしていたアコースティックギターが仕上がってきた。
量産品とはいえ手工に近い製品なのでそれなりの価格帯のギターではあるのだけど、クライアントのご好意により一本譲っていただくことが出来た。

 デザインの仕事していて嬉しいことのひとつは、脳内にあった形が実際に姿を現して店頭に並んだ時だ。その製品がたとえ自分が直接ユーザーになれないようなものであっても嬉しいが自分も使っていて一家言持っているようなカテゴリの製品であればなおさらウレシイ。

 早速チューニングしてとりあえず弾き慣れた曲を一通り。といっても高校生の時にモテたい一心で学校の近くのレコード屋で小遣いで手の届くアコースティックギターを買いこみジャカジャカやってた頃からさして腕前が上達しているわけでもなく「それって5フレット以上はいらんのんちゃうん?」な曲ばかりなんだけど。そしてその下手くそな腕前で弾きがなりする曲も高校生の頃とさして変わらぬ趣味であるのもこれまた。

 当時大好きだった山崎ハコの持つギルドのアコースティックギターに随分憧れ欲しくて欲しくてたまらなかったけど、そして今ではそれを手に入れることもさして難しいことでは無いんだけど、なんだか自分の下手くそな腕前には分相応な気がして、結局ずっと愛用して来たのは今や飴色に灼けた18000円のベニヤのギター。そして今わたしの元にやってきたギターは偶然にもかつてそのベニヤのギターを作った楽器メーカーのものなのだ。

 なんだか不思議なような。



 どこまで行っても明日がある。


新しい年が明けたというのになんだかテンションが上がらず。つうかちとヤバイ。

 わたくし本来ヒジョーに悲観的な心性の持ち主なので「未来は現在より良くなるはず」と出来る限りものごとを楽天的に捉えようと努めるのだが、たとえばガザで起きていることに対する、あるいは派遣村なる運動に対する、あるいは不法滞在外国人の子供達に対するこの国の少なからぬ人々の物言いを目や耳にするたびここんとこ絶望的な気分に陥って出られないのです。

 わたしには子供がいないしまたこれから子供を得られるチャンスもかなり低いだろうけど、それでも自分の次の世代にはよりよい未来を手にして欲しいと願わずにはいられないし、またそうでなければ自分が生まれて来た意味が無いとも思うのですね。「犯罪者を吊せ!」とか「外国人を追い出せ!」とか叫ぶ人々を見るにつけ、そしてそういう人々がこの国の大勢を占めつつあるように見える昨今(なにしろわが大阪府知事なる人物への支持率があれですから...)、私たちが子や孫に残すのは憎悪や復讐の未来なんだろうか、それってハムラビ法典の昔とどう違うのだろうかと、幼い甥や姪の笑顔を見るたびになにやら絶望的な気分になるのです。

 もっともそういうことに悲観する前に「お前の置かれてる悲惨な物的人的状況をなんとかせんかい!」との声もどこからか聞こえてこないでもありませんが。まそこはそれ。こういうのを見つけました。

トミカ・コマツ対人地雷除去機 D85MS

・2008年9月の発売から2009年3月末までの本トミカの販売総個数に対して、両社1個につき約5円相当(合計で約10円相当)の寄付を実施します。その後の継続については、今後各社で検討します。

・今回寄付の対象地域は、アンゴラおよびカンボジアを予定しています。

・寄付の内容については、コマツは対人地雷除去機の補給部品など、タカラトミーは文具や学校備品など子供の教育現場で使用されるものを予定しています。

だそうです。わたくしとりあえず10ヶ買ってみました。欲しい方、差し上げますよ。



 木枯らしの夜に。


 今宵は冷え込みもきつく強い風も吹いています。

 それでもわたしは暖かい部屋にいて湯気の立つ飲み物を飲んでいられます。
今夜も寒空の下で凍えながら眠りに就く人々、そしてどこかで涙を流している人々がいることを忘れないでいられる人間でありたい。

 今年も色々な人々にさよならをし、色々な人々に出会いました。みなさんありがとう。これからも色々な人々に出会えますように!

http://www.youtube.com/watch?v=s8jw-ifqwkM

 モサエブはサウナでコーランを詠む。


 なにやら憑きものが落ちたような具合だが。例の国籍法改正騒動。

 この騒動を通じて露わにされてしまったのは、わたしたちの「他者観」だったのではないか。それは「他者」が自分と同じように生活をし、また同じように悲しみに涙し喜びに宴する存在であると想像できる能力を持っているかどうかということだ。「外国人」にも家族や暮らしがあり、人を好きになったり別れを悲しんだりしてる存在であると想像出来るかどうか。差別的言辞を垂れ流すことを「愛国的」と讃える人々の姿を眺めていると絶望的な気分になりかねないけど、わたしは実はもう少し楽天的な気分でもある。

 少し以前にサタケ秀介という人が歌う「モサエブ」という唄を知りそれがとても気に入って今でも時々聴いている。歌われている風景にはこの国の市井の人々の心の国境は意外にゆるいんじゃないかなと思わせてくれる力がある。そして同じような風景は歌にこそ歌われていなくともこの国のあちこちで繰り広げられているに違いない。新しく隣人となった「モサちゃん」に困惑しながらも彼の家族に思いを馳せ彼と酒を酌み交わしている人々の姿を想像すると、なんだかこの国の人々をもう少し信用してもいいんじゃないかという気になってくるのだった。

 最終兵器、加藤嘉。


 わたくし死期の迫った恋人やいたいけな子供が登場する映画にはどちらかと言えば「けっ!」とか偽悪的なリアクションを取ってしまうのだけど、しょんぼりしたオヤジやジジイが出てくると途端に涙腺がゆるくなる質でして。幼少のみぎりに見た「自転車泥棒」という古いイタリア映画での父親の姿(幼い息子の前で最初から最後までずっとしょんぼりしてるという...)のあまりの哀しさに涙滂沱流るる思いをして以来ずっと「しょんぼりオヤジ映画」遍歴を重ねて来た訳です。

 たとえば邦画なら「生きる」の志村喬や「鬼畜」の緒方拳、ちょっとマイナーになるけど「サラリーマン物語」のハナ肇など、彼らのその侘びしい後ろ姿観てるだけで至福の境地。洋画ではあれ、ほらなんて映画だったっけ、教師がダンサーに惚れて身を持ち崩していくやつ(くそ、思い出せない)。あるいは「チャンス」のピーター・セラーズ、冒頭のシーンでのしょんぼりも良かったなあ。新しいとこでは「アバウト・シュミット」でジャック・ニコルスンが最後泣き崩れるとこなんか侘びしすぎてもうガマン出来ない!

 かように「しょんぼりオヤジ映画」遍歴を重ねていた訳ですが、つい最近「しょんぼりオヤジ映画」最終兵器を入手してしまいました。その名も「ふるさと」。

 ダムに沈む山間の村を舞台に妻に先立たれ認知症が始まりかけた老人とその老人に懐く近所の少年との心の交流、そしてその周囲の人々の人間模様を描く、といういかにも文部省推薦的なクサーイストーリー仕立ての映画で、いつものわたしなら「けっ!」と一瞥してもっと濃いーい映画を探しにかかるのだが。

 もうね、加藤嘉やばすぎ。なんというか冒頭出てきただけですでにわたくし目がうるうる。夕方のバス停にしょんぼり座ってるだけで目がうるうる。夜大声をあげる老人に疲れ果てた息子が離れを建てて体よく母屋から引き離すのだが、追い出す気かと息子と激しい言い争いのあげく嫁になだめられ「おらもちと言い過ぎたの...。せがれに嫌われたらおらも生きていけんけのぉ...。」としょんぼり離れに帰っていく後ろ姿で第一のピークがやってきて、あとは視界がぼやけっぱなしのいわば別の意味でジェットコースタームービー。一生懸命「この人は役者さんで実際は瀟洒な家に若い奥さんと暮らす洒脱な人なんだ。」と自分に言い聞かせるも無駄な抵抗。

 「砂の器」の本浦千代吉もかなり強力だけど、あれはたとえば番頭はんと丁稚どんみたいなヅラ、とか息継ぎをするとこをまだかろうじて見つけられた。だけどこの「ふるさと」での加藤嘉は完璧すぎて息継ぎするヒマも無し!この映画での加藤嘉を観て落涙せん奴は人間じゃねえ!普段偽悪的なことを言っては悦にいる友人知人に見せまくってだばだば涙を流させ、それを指摘しながら「なんやかんや言ってもお前にも暖かい血が流れているんやなあ...。」とものすごくイヤがられそうなツッコミをしたくなる映画。

 こんなすごい映画、というかすごい加藤嘉をなんでDVD化せんかなあ。もっとも加藤嘉がすごすぎて映画の本来のテーマがなんだったのかわかんなくなってしまうのが欠点なのだが。