私たちの在留資格。


 日本で生まれ育ち日本語しか話せない子供でも両親が不法滞在者なら国外に追放されて当然、という人々はお母ちゃんのまんこから出てきたとこが偶然日本だったというだけで在留資格を得ているわけですよね。「憲法なんてよく知らないし知るつもりもない」などと平気で言ってしまえる人にも在留資格を与えてくれる優しい国なんですよね。日本で生まれ育ち日本語しか話せない子供を国外追放し、日本に住んだこともなく日本語も殆どしゃべれない元ペルー大統領を”日本人”と遇しペルー人の告発から匿うのも日本人の優しさなんでしょうね、きっと。優しい国に生まれて良かったですね。もっとも ”日本人”であることがプライドである人々がここに生まれた以外に何をして”日本人”になったのかは私にはわかりませんが。

↓引用ここから

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不法入国:在留許可求め嘆願書 比人中学生と両親が法相に

 日本で生まれ育ち、日本語しか話せないフィリピン人の中学1年生、カルデロン・ノリコさん(13)=埼玉県蕨市=と両親への退去強制命令を取り消してもらおうと、ノリコさん一家が20日、在留特別許可を求める嘆願書を森英介法相あてに提出した。

 ノリコさんの父アランさん(36)と母サラさん(38)は92〜93年、他人名義の旅券で入国。95年にノリコさんが生まれた。06年にサラさんが入管法違反で逮捕され有罪となり、一家に退去強制命令が出た。取り消し訴訟も敗訴し、今月27日に退去の期限が迫っている。

 ノリコさんは「友達とダンススクールを開くのが将来の夢。生まれ育った日本が大好き。フィリピンでの暮らしは想像できない」と訴えた。

毎日新聞 2008年11月20日

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↑引用ここまで

 この少女と私たちや元ペルー大統領の在留資格の違いは何なんだろうね?

 死ね死ね団が狙ってる、の?



まさか私の友人知人の中には居ないと思いたいが。

 18日の衆院本会議で可決された国籍法改正案に対して「売国法案だ!」などと噴き上がる人々でネットは大賑わい。彼らはなぜか好んで「中国の偽装国籍ビジネス組織がホームレスに金を渡して中国人女性の連れている”非日本人”の子供を”認知”させ日本国籍を取得させる。」というシミュレーションをプレゼンしたがるようだが、そんな事を主張する人々は国籍法が改正されると役所に”認知届け”の如き書類が書面台に置かれて窓口にそれを提出すれば自動的に”認知”が認められるシステムになるとでも思ってるのだろうか。

 今次の国籍法改正案がかの人々の琴線のどこに触れたのかがいまいち判らないのだけど、どの方も「親子関係を立証するためのDNA鑑定を義務化しろ」と主張するところを見るとどうも”純血性”にこだわっておられるようだ。これも私にはさっぱり意味がわかんなくて、現在でもDNA鑑定を伴わない認知はざらにあるし(というかDNA鑑定を伴わない方がスタンダードなはず)さらには血縁関係でない子供を認知する例も身近にいくらでも見聞きできるはずだ。私が死ね死ね団の首領だとして外国人にガンガン日本国籍を取らせてニッポン国を乗っ取ろうという陰謀を企てるなら(そこ、笑っちゃダメ。)扶養義務の生じる認知をホームレスに偽装させるなんてまだるっこしい(というか現状での認知や在留資格の認定のシビアさを考えれば殆ど不可能な)方法など採用せんがなあ。

 中には「法律の事はよくわかりませんが」と書いたあとに臆面もなく「改正案絶対反対!」て叫ぶ理解不能(というかはっきり言って果てしないバカ)な人の姿もたくさん。挙げ句の果ては国籍法改正反対派議員の事務所に賛同FAXを大量に送りつけて通信機能を麻痺させてしまったという殆ど喜劇まで巻き起こってて。

 そんなてんやわんやを最初は笑って見ていたのだけど、実はこれがこの国の人々の基本のカタチなのではないかとちょっと背筋が薄ら寒くなってきてしまったのも事実。想像や憶測だけで他者の持つ権利を制限出来ると考える人たち。論理や知識より自分が「感じた」ことの方が大事だと思う人たち。そんな人たちの姿を見るのは今回だけではない。

 まあネットでは声のでかいバカが目立つという法則もあるゆえ私の心配も杞憂であるかも知れないが、こともあろうに最も軍隊の指揮官になってはいけない愚か者がその組織の最高位にまで登りつめてしまってた国だからなあ...。

 蛇足だけどちょっとウケてしまったネタ。
田母神氏の”論文”をアパが英訳して公表するらしいが、それは国家機密漏洩罪になるという小咄。有名なソ連小咄の応用ですね。


 地球の笛吹き。


 iPhoneがわたしの手元に来てから数ヶ月。そろそろ飽きてもいい頃だと思われるだろうが、実は一向に飽きる気配もなく、どころかワクワク感がずっと持続している。というのも次から次にリリースされるiPhone用アプリケーションに「その手があったか!」とか「やられた!」という驚きを与え続けられているからだ。

 中でも感動したのがiPhoneをオカリナにしてしまうアプリケーション「Ocarina」。
マイクに息を吹き込んで音を鳴らすアイデアが素晴らしい。いわば超シンプルなウィンドコントローラーであるのだ。たった四つの”穴”を押さえたり離したりするだけで大概の曲は吹けてしまう。息の強弱で音量も変えられ、iPhoneを傾けることでビブラートも付けられる。また簡単にキーやスケールを変えることができるのはデジタルならでは。運指を図示してくれる楽譜もユーザーによってアプリの発売元サイトに次々にアップされているので簡単な曲ならその場ですぐに吹けるようになる。


 だが「Ocarina」の面白さはそこじゃない。
世界のいろんなところで「Ocarina」を吹いている人々のいきぶきをリアルタイムで感じることが出来るのだ。「Ocarina」を起動すると自動的にサーバに接続され自分の吹く音がリアルタイムでアップされる。と同時に画面上の仮想地球の上にまたたく無数の光点で表示される「地球の笛吹きたち」が今奏でてる音もわたしのiPhoneにストリーミングされスピーカーから流れてくる。

 最初に「Ocarina」を起動し誰かの吹く笛の音を聴いたときはなんとも不思議な気分になった。これまでも世界中の見知らぬ人々とテキストや音声を通じて話して来たが、それらを初めて体験したときとはまた違った感覚。たどたどしい笛の音が聞こえてくるだけなのに、回線の向こう側に居る人々の体温が伝わってくるような感覚。こんなに平和な気分になったのは久しぶり。

 ネット黎明期に夢見た「国境の無い世界」。ビジネスや政治に翻弄される今のネット状況を見ればそれがナイーブすぎる夢想であることはいかな脳天気な私とて思い知らされるせちがらい毎日ではあるし、「Ocarina」の仮想地球上の光点を見ても笛吹達の居る場所が”富んだ国”に偏っているという現実を思い知らされる。それでも、地球のあちこちから聞こえてくるたどたどしい笛の音を聴いていると「ナイーブな夢想も悪くないんじゃないか?」なんて。

 この季節、世界のあちこちから聞こえてくるのはぎこちないクリスマスソング。みんなきっとクリスマスパーティで披露すべく練習してるのだろう。0と1に変換されたクリスマスソングだけど、0と1の向こうにそれぞれの人々のそれぞれの暮らしが見えてくる。

 何の生産性向上の役にも立たずただ世界中の人々が吹く笛の音を聴くことが出来るだけのソフトはApp storeにて115円で発売中。

追記:
このエントリをアップした直後に”au楽器ケータイでインタラクション・デザインを追求する”なる記事を見つけた。う〜む。YAMAHAが絡んだらこうならざるを得ないのかも知れないが、「Ocarina」の”デザイン”の素晴らしさを知った後ではハゲしくずれまくってるとしか言いようがない(デモ動画、はっきり言ってものすごく恥ずかしい...)。このライターのヨイショもダメすぎる。「ガッキケータイを持った人が武道館に1万人集まって同時に音を出したらどうなるだろう。わくわくする想像である。」って...。


 ふるやのもり。


 山の散歩をしていて見つけた古い木造校舎で昼寝をした。

 小さな体育館の日当たりのいい窓際に置かれた長いすに寝ころんで過ごすどうってことないひとときがこんなにも幸せなのはやっぱりどこか病んでるのかなあ、などと下らない事を考えたりしながらガラス障子越しの初冬の日差しの中でしばしまどろんだのだった。

 風もなく人も通らないそこで聞こえてきたのは家鳴りの音。なんだか久しぶりに聞く。ただ木造の建物がきしむ音なのにとても懐かしい。長いマンション暮らしで忘れかけていた音だ。

 子供の頃暮らしていたのはそれはそれは家鳴りの賑やかな陋屋で、寝床に入ってシーンとした中に時折響く「ミシッ」っていう音がとても怖かったし、それは何かの気配を感じさせられる音でもあったのだ。また、日中も薄暗いその家には私たち家族以外の気配が家鳴りだけではなくそこここにあった。それは便所(断じて”トイレ”ではない)に通じる廊下の隅っこであったり狭い裏庭に植えられた南天の木の根元であったり。確かに何かが居る気配がした。

 子供の頃のその「気配」はただただ恐ろしく出来れば去って欲しいものでしかなかったが、長じてわたしが廃墟や”いなたい”場所を見つければ足を踏み入れずにいられないのは、実はそういう「気配」を求めてのことではないかとも思う。廃墟や”いなたい”場所には無人にも関わらずなにかがささやきかけてくる「気配」がするのだ。

 現代の住宅や街に闇が無くなった事が都市の病理の原因のひとつと指摘する論調をときたま耳にする。それが果たして妥当かどうかはわからないし、またそうだとしてもそれが「昔はよかった」につながる話になるのでは面白くないが、廃墟や”いなたい”場所を探訪することが昨今若い人々の間でも流行っていたりするのは実は彼ら若者達も書き割りのような街から立ち去っていった何かの「気配」を渇望してのことではないだろうか、それならば新しく次々に出来る書き割りの街に再び「気配」を発するもの達に帰ってきてもらう方法はないのだろうか...。

 家鳴りの音を聞きながらそんなことを考えていたのであった。


 ハヌマーンでスッキリ。


 タイで放映されていたウルトラマンが私たち日本人から見ると「なんか違う...」っていうのは有名な話。根本的にウルトラマンと関係無さそうなキャラクターがウルトラ一家の一員として大活躍するのである。その名も「ハヌマーン」。

 感覚がグラグラさせられるもの好きな私、偶然入手したこのタイ製ウルトラマンのビデオを見ては感覚の揺らぎを楽しんでいたのだが、とある方の「なんでタイでハヌマーン?」という疑問に「そういえばハヌマーンってヒンドゥー教の神様だよなあ。タイの人々ってほとんどが仏教徒じゃなかったっけ?なんでハヌマーン?」とわたしの頭にも?マークが浮かんだのだった。

 そこでGoogle先生に聞いてみたら「ジャアク商会/タイランド旅行案内所」というサイトにこういう記述があるのを見つけた。

タイ仏教とバラモン教とのかかわり

 詳しくはリンク先を参照いただきたいが(この”ジャアク商会”って他のコンテンツもなかなか面白いです)、要は仏教と王制を両立させるために支配層が隣国クメール帝国よりバラモン教(古代ヒンドゥー教)を導入したのだと言う。仏教は突き詰めれば平等思想につながる教えであり絶対王制の基本である選民思想世襲思想を弱体化するおそれがある。そこで現人神として王が君臨する隣国クメール帝国から民衆支配のヒントをいただき人為的にバラモン教の導入がなされた、という説だ。ゆえに現在のタイ王朝でもバラモンの儀式が維持され民衆のあいだでバラモンの神であるハヌマーンの人気が高いらしい。

 もしこの記述が妥当だとするなら、元々反バラモン思想より生まれたはずの仏教が再度バラモン教と融合させられ民衆支配の道具の役目を負わされて来た歴史の皮肉も興味深いが、わたしがより興味深く思ったのは民衆がなぜバラモン教を受け入れていったのかという点だ。支配者が平等思想より選民思想を選ぶのはわかるけど民衆がそれを受け入れたのはなぜか?

 ここからはわたしの戯れ言になるけど、仏教より貧者に救いが少なく見えるバラモン教が民衆に受け入れられていったのは実は「スカッとするから!」なんじゃないだろうか、なんて。仏教って結構辛気くさい宗教のように思えるのですよ。56億7千万年後に弥勒衆生の救済に現れる、なんてめったやたらにのんびりしているし、ライフハックみたいなこと言ってくれるわけではないし。また叙事詩的な性格を持つ教典があるわけでもなし(お釈迦さんお腹こわして亡くなったんですよね)。

 それに比べてラーマヤーナの爽快なこと。
英雄が全世界を飛び回り、闘い、傷つき、そして愛を交わす。登場人物が戦士や王族だけで病人や貧乏人などが出てこないとこも辛気くさくなくって最高!中でも主役ラーマ王子をサポートする機智に富んだ戦士として描かれるハヌマーン、悪い奴をばったばったとなぎ倒し爽快なことこの上ない。孫悟空のモデルになったという説も頷ける。そりゃ明日の仏教より今日のバラモン教だろ!

 まあ実際はそんな単純な話ではないだろうしなんの検証も伴わない戯れ言ではある。
ここんところの大阪府知事の言動に対して「スッキリした!」「わかりやすい。」などという感想をネットのあちこちで見かけることが哀しくてつい思索の方向がそっちに向いてしまいました。スッキリした気分の後に大阪府民に残るものが現代のバラモン教でなければいいのだけど。

 ウルトラマンだけではなく仮面ライダーも「なんか違う...」のだが、その辺はまた後日。

 掘った芋いじるな。


 先日ニュースで映像が流れたのでご存じの方も多いだろうけど。
第二京阪道路建設に伴う土地収用強制代執行に際しての保育園芋畑撤去の話題。わたしはテレビを見ないのでその際の映像は未見だったのだが、ニュースの字面を追った印象だけでは正直言って微妙な心もちだった。

 ニュースサイトにアップされていた涙ぐむ一人の園児を捉えた写真も、メディアにしたらおいしい絵面かもしれないが、国や自治体の専横に異議を唱えることを”住民エゴ”などと揶揄するバカ共を噴き上げさせるだけの材料になりはしないかとの危惧を感じたし(案の定「子供をわざわざそんなところに連れてくる保育園側も悪質」というエントリやコメントが噴き上がっている)、そもそもニュースだけではこの保育園が所有してる土地なのかどうかさえわからず、保育園関係者や保護者の主張の是非を判断する材料になりはしない。

 とモヤモヤした気分でいたら、時々覗きにいく反戦な家づくりというサイトにてそれがホントならこの土地収用騒ぎの裏側で「子供がかわいそう」どころじゃないことが起こっているのを知ったのだった。詳しくは出来れば前述のサイトや門真市議戸田ひさよし氏のサイトを是非参照いただきたいが、注目すべきところをあえて抜き出すと、

1)強制収用の対象とされた芋畑は保育園理事長の先祖代々からの持ち物だった。

2)19年前より園児の学習用畑として「税金免除の特例」を行政より認められていた。(注:「税金免除の特例」は20年間継続して農地使用することを前提に認められる。)

3)保育園理事長は土地収用強制代執行の執行停止申し立て中だった。

4)執行停止申し立てに対して大阪高裁はこの30日に決定を出す予定だった。

5)申し立て中にも関わらず(というか”それゆえに”と言いたいが)大阪府土地収容委員会の認定により強制代執行強行。

6)実は所有者である保育園理事長が知らないうちに土地収容委員会の決定によって土地の所有権は西日本高速道路に移転されていた。

7)土地所有権の移転により「税金免除の特例」の前提である20年間の農地使用継続が中断されたとして、国税局より過去19年分の税と利子(!)合計2200万円超の請求が保育園理事長に届いた。

 私たちが住んでいるのは中国か?北朝鮮か?

 そもそも伏見区から門真市までの28.3 kmに普通車で1300円、トレーラー等だったら3600円かかる有料道路(なんと二階建て12車線!)が国道の渋滞緩和に効果があるかどうかはともかく、道路公団民営化に伴い大阪府の負担金が420億から890億に膨らむこの第二京阪道路建設を強力に推進しているのが児童文学館やドーンセンター、あるいは地域オーケストラをぶっ壊そうとしてる橋下という男だと言うことを大阪府民は覚えておいた方がいいと思う。

↓ここから引用

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 大阪府橋下徹知事は〜中略〜府が今年度支払う、約210億円の国直轄事業負担金については「こちらが要望してつくってもらおうとしている道路で、まけてほしいとはいえない。払ってでもつくってほしい」と述べた。
産経IZA 07/31 より引用

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↑引用ここまで

 しかし。
なんなのだろうな、常に他者に相殺を強いるこいつらは(たとえばここのコメント欄を参照)。あなたがたが住む家が強制収用の対象になり自分の知らないうちに所有権が移転されててもちゃんと相殺してくれるのだろうな。

 このところ「”相殺”することを立ち位置とする人々」の心性に平静でいるのが困難な日々が続く。

 属せない人々。2


 以前アップしたこのエントリに関して、コメント欄への書き込みやトラックバックだけでなく違う場所でも議論のとっかかりにしていただけたのを拝見した。それらを拝見して自分の記述の曖昧な部分を自覚出来たりあるいは自分とは違う視点に刺激を受けたり出来るのは大変有り難いことだ。

 もっとも一番実感したのは私自身の表現力の拙さで、「属せない人」という言葉に「選ばれし者の恍惚と不安」な選民臭を感じられたのは私の不徳の至りでもある。そういうチンケなプライドは私には全く無いなどと言うつもりは毛頭無いし、実際多数派をバカにすることでプライドを保とうとする”少数派”の姿は私も含めてあちこちで簡単に見ることができる(そこのMacユーザー。貴方のことですよ!)。

 わたしのチンケなプライドはともかく。
「属せる人」「属せない人」と書いたのは集団への帰属意識の有る無しの是非を問うためではなく、「属せる人」と「属せない人」間の非対称性を考えていただきたかったのだった(って偉そう..)。私の書いた「思いやり」「愛」「素朴な感情」「家族」「国家」「仲間」という言葉も、それらを”自明のものとする人々”と”自明じゃないかも知れないと疑う人々”の間で働く抑圧の方向を考えればランダムに並べたわけじゃないということもわかっていただけるだろう。

 ”思いやり”は持って当たり前という人々と”思いやり”ってそもそも何?という人々の間で働く抑圧の方向はどちらを向くか?”家族=善きもの”という人々と”家族ってそもそも何?”っていう人々とでは抑圧の方向はどちらを向くか?あるいは”国家=帰属するもの”なひとと”そもそも国家って何?”なひと。”仲間は大切 ”なひとと”仲間って何?”なひと。

”自明のものとする人々”と”それを疑う人々”の間で働く抑圧はいつだって一方通行だ。

 ネットで色々な人々の言論に接しまた直接色々な人々としゃべって得たものは、存在の非対称性を視点に入れてものを考えることだった。
 私自身がこの国で男性であるということがどういうことであるか。あるいは大人であるとはどういうことであるか。心身に障害を持たないということはどういうことであるか。衣食住に困らないということはどういうことであるか。いずれもそれに依った時私が容易に抑圧の一方向に立つことが出来る存在である、ということだ。

 「属せない人」宣言はわたしのチンケなプライドを満たすものではなく、”疑う”ことを止めた時は抑圧の一方向に立っている時かも知れないということを忘れないためのものでありたい。

追記:

 「属せない人」はメタな相殺言論を操る人への素朴な批判でもあるのだが、面白かったのはそれをもメタな相殺言論をもって批判する人の姿が見受けられたことだ。前のエントリのコメントでウヨクサヨクの対立に関心が無くなってきたと書いたが、私が対峙すべきはイデオロギーの違う人ではなく”メタみつを”なのではないかとの思いが最近固まりつつある。